Tourism passport web magazine

学校法人 大阪観光大学

〒590-0493
大阪府泉南郡熊取町
大久保南5-3-1

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大阪観光大の学生や教員が運営する WEBマガジン「passport」

Osaka University of Tourism’s
Web magazine”passport”

「passport(パスポート)」は、観光や外国語、国際ニュースなどをテーマに、 大阪観光大学がお届けするWEBマガジンです。
記事を書いているのは大阪観光大学の現役の教授や学生たち。 大学の情報はもちろん、観光業界や外国語に興味のある方にも楽しんでいただける記事を定期的に公開していきます。

ネイティブスピーカーのようになりたい! ~私の外国語学習論

外国でのハナシ、英語で “How many languages do you speak?” と尋ねられたことが何度かある。
 私は、中国や東南アジアの大陸部の国でフィールドワークを行う身なので、確かに中国語やタイ語は「分かる」。研究対象である少数民族モン[Hmong]の言語も同様である(ちなみに、このページの世界の言語の文字画像のなかで、日本語より下に数えて2行目がモン語である。発音こそ読み取れないが)。大学時代はフランス語学科で学んでいたため、使おうと思えば、フランス語でもカタコトの挨拶くらいまではまだ覚えていて、「ほんの少しは使える」。また、バックパッカーとして南米を縦断した経験があり、スペイン語もほんの少しは使える。英語は「もっと何とかなる」と思っている。
 だが、上のように尋ねられると、かえって首をかしげてしまう。自分ではその数について自信を持って答えられない。
 複数の外国語でカタコトの挨拶ができるというだけで、「スゴイ!」と褒めてもらえるのは、小学生を前にそれを披露したときくらいだろう。多数の言語に精通している人を英語で “polyglot”と呼ぶが、私がそれであるかと問われると、自信がない。今やフランス語やスペイン語の大半は忘れてしまったからである。とにかく外国語は使わなくなるとすぐに忘れる。外国語はあとから学ぶもので、赤ちゃんが母親のおっぱいを飲むようにして覚えた馴染み深い「母語」ではない。だから、例えば言いようとしては、自分で「もっと何とかなる」と思っている英語ですら、”My English ability is limited.” というほかはない。
 ここまで書いただけでも、「アタマのイイ人なんですね~」と皮肉を込めて言われそうだが、大学院時代にもっとスゴくて賢い人を見て来た自分にすれば、私自身は決してそのような種類の人間ではないと断言できる。
 私の先輩には、クセのあるインド英語を真似て、延々と電話で現地のインド人と会話し、通話が終わるまで、本人が日本人と全くバレなかったという人がいる。その方は現地の言語の音素を聞いただけで、すぐに反復できるのだ。インド英語の特徴はまず発音に現れるが、それにしても上には上があるものだと思う。
 よくよく考えてみれば、複数の言語が使われる状況や、複数の言語を話す人々の存在は、欧米ではある意味「当たり前」である。国内にフランス語圏やドイツ語圏があるベルギーやスイスを思い起こしてほしい。アメリカでもネイティブ・アメリカンの人々や、移民に出自がある人なら、英語ともうひとつ別の言語を話せる可能性がある。世界的に見ると、複数の言語を話したとしても、さして感動するほどではない。
 逆に考えたら、むしろ日本人の言語感覚のほうがオカシイと思えてくる。例を挙げよう。冒頭の一文を日本語に訳してみるとどうなるだろうか? 多くの人が疑問を持たずに、それを「あなたは何か国語話しますか?」と訳すのではないか。ところが、その文には国を表す表現や国家のニュアンスを含んだ単語は全く含まれていない。世界の言語は5,000あるとも7,000あるとも言われ、国家は一対一の対応関係にはない。ネット上で割り振られた国名コードの数は260に足りない程度だから、世界は本来的に多言語的なのだ。「あなたは何か国語話しますか?」という表現には、日本人が感覚として持つ、「一つの国には一つの言語しか対応しない」という強い思い込みが含まれているのではなかろうか。それはある意味、夜郎自大的な「大きな勘違い」である。

さて、複数の言語が解せる(と思われている)私が、そのことに胸を張れないのにはワケがある。それは、それぞれの言語で「気のきいた言い回し」ができず、外国語をひとつでも満足に使いこなせているとは認識していないからだ。「気の利いた言い回し」は、現地のテレビやラジオを見聞きすれば、そこここに登場する。話しかけられたセリフに臨機応変に答えられるかどうかは、学んだ言語がいかに身に着いたか、つまりいかに条件反射に近いレベルにまで達したかという点と関係しているので、ある程度までは日常会話で対応できる。しかし、それより上の次元に達したいのである。確かに語学学習に熟達は不可欠なのだが、外国語が運用できると簡単に表現しても、スマートな気のきいた表現ができて初めて、「使いものになる」のだと、私は思っている。
 私はアメリカや中国などで何度も悔しい思いをしてきた。国際学会で発表する前などは、自分なりに英語や中国語に発表内容を翻訳して、原稿を持って行く。実際に行ってみて発表し、質問を受けたり、会話をしたりしてみると、もっとこなれた、その言語らしさを含んだ表現と出会い、それに気づいてとても悔しい思いをする。本当である。
 ある学会で発表が終わった時、私が配布した資料を持ったアメリカ人研究者がツカツカと歩み寄ってきた。その方は挨拶の後、 “What you described here is quite interesting.”と切り出した。そこから新たな会話が始まり、仲良くなった。
 日本語で「あなたが書いたモノ」と表現したいとき、単純に思いつくのは”What you wrote (down)”であろう。動詞の to writeを to describeやら to representなどに自然に言い換えられるのが、ネイティブスピーカーの真髄(?)である。to go to~や to visitなら、to head for/to や be off to に言い換えるのがそれに当たるだろうか。それが自分で自然にできるようになったら、”You’re a capable person!”(ナカナカじゃん!)と、自らを褒めてやってもよい。
 いずれにしても、国外で外国語の気のきいた表現を耳にして、毎回「そんな言い回しがあったのか!」と、自分の学びの足りなさや機転の利かなさに地団太を踏みつつ、後悔しきりである。後天的に獲得した外国語には仕方がない面もあるが、何語を使うにせよ、その言語を母語にするネイティブスピーカーは、やはり恐るべしである。何年外国に滞在しても、現地の言葉の修得に難がある人などは、極端な能力アップは期待できない。その場合の学びの方法は、いわば「習うより慣れろ」になるのだろう。

私自身、振り返ってみると、例えば英語がレベルアップしたのには、大学時代に友人になったオーストラリア人とフィリピン人の夫妻や、共通の友人であったユダヤ人らに負うところが大きい。
 上の夫妻は、日本人の大家さんと話すときにはこなれた日本語を使ったが、一方で私と話すときには英語しか話してくれなかった。それがかえって私には好都合だった。
 ある日、彼らが好きなフィリピンのラム酒を、家で飲もうという話になった。小さなカップにラム酒を注いでもらっている時、私はこう言った。”Thank you for serving me.”と。
 ちなみにこの表現、文法的に見て、間違いはないのだが、それを聞いたオーストラリア人のご主人は鼻で笑いながら、「Yasu(当時の私の呼称)、そんなことは、イギリスの女王でも言わないよ。」と英語で笑いながら言って若い私を諭してくれた。”Thank you.”や”Thanks!”と言えば、それで充分だったのである。
 彼は有名な日本語学の教授のもとで、日本語の複合動詞の研究をしていた。修士論文が大詰めに近づいたとき、日本語表現のインフォーマントとして3日3晩、彼の家に泊まり込みを敢行し、執筆を手伝った。4日目の朝、私が寝不足顔で論文の完成を祝ったら、彼は”Thank you so very much!”と言い、大きな体で私を抱きすくめた後、表に「薄謝」と書いてある3万円入りの封筒を私にくれた。彼とはずっと英語でやりとりしてきたから、彼がそこまで日本の慣習に精通しているとは知らずに、その封筒を受け取って、ただただ驚いた。
 こうした経験をもとに考えると、やはり学んでいる外国語について言えば、「首までどっぷりと浸かる時間をいかに確保するかが鍵」である。また、言い間違えたら周囲の人にすぐに訂正してもらうのがよいだろう。少なくとも私はそう思う。外国語の学習には王道はなく、単語や文型を覚えたりしながら、着実に歩むのが上達の早道ではある。今や発音矯正のアプリも多々ある。しかし、その一方で、実地経験を積むことほどの強みはない。外国語のTPOは、試行錯誤して初めて身に着けられる。異文化の体験も同様だ。したがって、私は邦人学生にはことごとく、「海外旅行に行きなさい」、「留学に出なさい」と伝えるようにしている。

何語を使うにしろ、「この人はネイティブスピーカーではないな」と悟られるような外国語の使い手では、そもそも心もとないし、議論やディベートなぞできるはずもない。ましてや外国語を「使いこなせる」とは言い難い。
 人工知能(AI)技術の急速な発展で、近年、手のひら翻訳機でもかなりの高確率で正確な翻訳ができるようになってきた。2045年には、人工知能が人間の脳を超えるとされるシンギュラリティ(技術的特異点)に到達すると言われている。今世紀前半のうちに、小型翻訳機やスマホの翻訳アプリにまかせきりで通訳者は一切不要という時代がくる。その時にはムズカシイ勉強をして複数の言語を解さなくても済むようになるはずだ(将来の外国語教育を考えたら末恐ろしいが)。その一方で、日本では中国や東南アジアから来訪する技能実習生の数は増えて行く。そうした意味では、日本の社会は外国語や、その運用者であるニューカマーの外国人に関する様々な社会問題を抱えるようになる。
 私は死ぬまでの間に、自分が多言語話者と自認できるように、私なりに毎日の勉強を続けよう。心の通うコミュニケーションをひとりの人として行うこと、それはグローバリゼーションへのせめてものレジスタンスだ。
 最後に、小稿を気のきいた英語の一文で閉じよう。これを読んでいる方も、海外旅行に行ったと思って、下の文をどのように日本語に訳せばイイか、考えてみてほしい。
 ”Does it make sense to you?”

(谷口 裕久:たにぐち やすひさ 本学国際交流学部・教授)

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