Tourism passport web magazine

学校法人明浄大学 大阪観光大学

〒590-0493
大阪府泉南郡熊取町
大久保南5-3-1

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大阪観光大の学生や教員が運営する WEBマガジン「passport」

Osaka University of Tourism’s
Web magazine”passport”

「passport(パスポート)」は、観光や外国語、国際ニュースなどをテーマに、 大阪観光大学がお届けするWEBマガジンです。
記事を書いているのは大阪観光大学の現役の教授や学生たち。 大学の情報はもちろん、観光業界や外国語に興味のある方にも楽しんでいただける記事を定期的に公開していきます。

私の映画時評(1) ~「聲の形」を観て他者に考えいたることの重みに気づく~

京アニが制作した「聲の形」(原作:大今良時、監督:山田尚子)を観た。

京アニ、つまり京都アニメーションといえば、あの放火殺人事件から1年が経った。今でも心には強く火災の映像が呼び起こされるが、アニメの制作では京都というよりも日本を代表する会社だった。
 ずいぶん前に筆者は、前任校の学生を連れて、ここを訪問した経験がある。まだ古い建物だったけれども、壁に多くのアニメのセル画が展示されていたのをよく覚えている。
 さて、この映画は、障がい者と健常者との対話の物語である。そこでは青少年社会の「いじめ」もひとつのキーワードになっている。主人公の西宮硝子(にしみや しょうこ)を「いじめて」いた石田将也(いしだ しょうや)もまた、彼女同様に「いじめられた」経験を持つ生徒だった(日本では高校までは「いじめ」という表現が多用される。文科省の定義も認められるものの、社会的には曖昧な意味合いでしか捉えられてはいない。大学教育の段階になると、それは「ハラスメント」と表記を変えるのだが、後者に用語を統一できないものかと思う)。
 人は一定の発達や成長とは不可避的である。誰しもが甘酸っぱく、そして苦い経験をする。この「聲の形」は、そうした成長の過程における、聴覚障がい者と健常者との若き日の関係性を、親しい友人たる男女の視点で描いた名作である。
 さて、2020年は東京オリンピック・パラリンピックが開かれるはずだった年だ。一昨年あたりから、テレビなどで後者の広報活動も活発に行われていた。それは記憶に新しい。
 障がい者は健常者の隣人であり、健常者は障がい者の隣人である。今や一定規模以上の企業は、雇用する障がい者数を雇用率に従って確保する必要が法的にある。すでに数合わせが行われていたという報道があったが、実態が伴うかはともかく、このことは逆に考えれば、法規で律しない限り、健常者による障がい者の排除が続いていることを意味している。
 障がい者と健常者とのあいだには区別や区分はあるが、互いの意識には垣根は必要はない。これまでは接触機会が少なく、相互によく知らなかっただけなのではないか。そう考える事由は後述する。NHKという公共放送においても、教育的効果は認められるのだろうが、Eテレ(教育テレビ)でしか、障がい者に関する番組は放送されていない。知らないことは誰かが伝えねばならないのにである。

また日本では、「社会的弱者」の一角を占める難民や、外国人技能実習生の実態、さらには迫害を受けているとされる外国人長期収容者や、多くの外国人児童のこと等々は皆が知る事柄ではない。それは、その事実を平易に知らしめるテレビ番組が少ないというのが、その一因だろう。
 知識の普及は、大学などの教育機関がその一端を担う。その一方で、社会への影響力が高いマスコミもその普及に深く関わり、力を貸すべきだ。番組を通じて障がい者等に寄付を募る番組はまだ盛況である。だがそれが「お涙ちょうだい」的な意味を帯びている点については、障がい者からの指摘が行われている。筆者もそこには違和感を覚えざるを得ない。あの「津久井やまゆり園事件」からも4年が経過した。視聴率を稼がねばならないというテレビ界の宿命的な事情があるのかもしれないが、社会的に影響力の強いメディアは、健常者が障がい者を、障がい者が健常者を、相互に意識しないまでに社会の平等な一員として認めるための公器となってほしい。そこには意識下の優生思想も必要ではない。それらの点は社会の側が銘記すべきだ。そうした積極的な視点や他者観が本来的に日本社会にはに欠けているのではなかろうか。蛇足だが、学年の開始時期の9月への移行が検討され得るのならば、異論もあろうが、いっそそれに合わせて、障害児教育を含むインクルーシブ教育も概念や制度ごと見直してはどうだろうか。
 とりわけ、健常者の障がい者に対する認識を高めるひとつの機会がパラリンピックだったのだが、とにかく延期になってしまった。開催を待つまでの間、今しばらく障がい者に対する認識を深め、新たな関係性も模索したい。
 本学ではまだ聴覚障がい者や視覚障がい者を学生として受け入れた経験はない。当然、その準備を整えておく必要はあるが、同時に「観光を主幹する大学」として、彼らが主体となる「観光」について検討を進める余地も大いにある。まだ普及の途上にあるそれを体系的に展開するための仕組み、いわば「アクセシブル・ツーリズム」をである。

耳マーク(左) / 聴覚障がい者標識(右)

先ほど、「(健常者は障がい者を、障がい者は健常者を)相互によく知らなかっただけなのではないか」と上で述べた。その点を再認識したのは昨年度担当した授業、「観光福祉論」だった。その授業では、留学生の出身国や日本人の留学先での障がい者認識や施策を調べてもらい、その発表を行う機会を持った。障がい者の定義や障がい者観は、宗教的な差異や社会構造のなかにあり、障がい者の処遇は、それぞれの社会で極端に相違する。その具体性は、その授業がなければ知り得ず、それを知の一部として獲得できたことは成果のひとつだった。
 その授業でも批判的に考察したのだが、日本が批准した「障害者権利条約」や、本邦における「障害者基本法」や「障害者総合支援法」に基づく施策の、社会的認知度は高くない。一例を挙げると、用語としてある「同行援護」や「行動援護」、「共同生活援助」などの意味を読者はご存じだろうか。これらは言の葉としても、仕組みとしても人口に膾炙していない。つまり、上の仕組みは行政上かつ官僚の言葉としてはあるが、社会ではシェアされてはいない。もっと言えば、障がい者への事業には国の認識と市町村の実施実態とのあいだには差があり、自治体の処遇に大きな格差がある。この点はもっと驚きをもって受け止められてもよいはずだ。同様に、過去の日本では「知的障害」に関する論争や、聴覚障がいの「手話―口話論争」があった。それらについても耳目を集めるに至っていない。

この映画の描写手法に、登場人物の顔に示される×印がある。それが書き表される人物は数多く出てくるが、その意味はこの映画を観れば自ずと理解できる。友人や隣人、はたまた既知なる者とはいったいどんな存在であり、彼らとどのような関係性を築く必要があるのだろうか?
 果たして私たちは、隣に座る友達や家族を本当に理解しているだろうか? 真に尊重しているだろうか? 彼らに対して「理解すべきだ」、「尊重すべきだ」と口に出すのは簡単だ。今、その意味を胸に手を当てて考えてみてほしい。社会を形成する人々の多様性について熟慮せねばならないこの時代に、障がい者を含めて、自己以外の他者に思いを馳せ、他者のために行動し、加えて心を開くことの意味について、今までにまして思惟してみる必要がある。

映画の前半で主人公のひとり、石田将也が「自分が犯した罪は、そっくりそのまま自分にはね返る。」と短い台詞を発するシーンがある。その台詞を聞いてすぐさまナポレオンの言葉、「お前がいつか出会う災いは、おまえがおろそかにした時間の報いだ。」を思い出した。それぞれ重みのある語意が重なり、この短文には少し重厚すぎるかもしれない。しかし、この主人公の内省的な言を忘れぬように、あえてここに書き留めておこう。

本学・国際交流学部教授(「異文化理解」・「社会学」等担当:文化人類学者)

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