Tourism passport web magazine

学校法人 大阪観光大学

〒590-0493
大阪府泉南郡熊取町
大久保南5-3-1

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大阪観光大の学生や教員が運営する WEBマガジン「passport」

Osaka University of Tourism’s
Web magazine”passport”

「passport(パスポート)」は、観光や外国語、国際ニュースなどをテーマに、 大阪観光大学がお届けするWEBマガジンです。
記事を書いているのは大阪観光大学の現役の教授や学生たち。 大学の情報はもちろん、観光業界や外国語に興味のある方にも楽しんでいただける記事を定期的に公開していきます。

近世にみられる街道の発達と旅

十返舎一九の滑稽本である『東海道中膝栗毛』によって馴染みの弥次郎兵衛と喜多八は赤坂の旅籠に泊まり、ひと騒動引き起こした。伊勢路の終着地、伊勢神宮の門前にあたる古市は、江戸中期ごろから参宮客の精進落しの宿として賑わっていた。当時は京の島原、江戸の吉原、大坂新町とともに屈指の遊里とうたわれ、両人も古市の廓に繰り出している記述が当書にみられる。江戸時代、伊勢参りは信仰だけではなく庶民の娯楽としての一面も見られ、一生に一度は足をのばしてみたい旅路であった。関東からの参詣者は東海道追分から参宮街道に入り、畿内方面の者は大和から伊勢へ出る伊勢街道、伊勢本街道、紀州街道を通った。陸路を利用する者は宮川を渡って神苑に入り、宿をとり、外宮から内宮と参拝順路をとるのが習いで、道中には宝永4(1707)年創業の茶店「赤福」などが軒を並べていた。

このように街道は人の往来によって文化を普及、発達させるとともに流通経済を進化させたのである。道の在り方が文化や経済の発達を左右づける場合が極めて多かったように思う。

近世にみられる交通網の整備は江戸町を中心に幕藩体制の維持を第一とするために整えられた政策の一つとして形成されたものであつた。1601(慶長6)年に幕府は江戸日本橋と京都三条を結ぶ東海道に53箇所の宿駅を設け、各宿場に傳馬36疋を提供する義務を課していた。助郷役とよばれる課税である。これは重い負担であるといっても過言ではないが、一方、1疋につき31坪から40坪の地租に価する「地子銭」を免除されていた。このことによって宿場の近傍に居住する者は馬を引き、街道を往来することによって生計をたて、やがては物資の流通のみならず、人的交流も隆盛をみることになり、惹いては、文化の伝搬に寄与することに繋がっていったのである。

幕府の交通政策の進捗によって、陸上交通は日本橋を起点に近世交通網としての主要街道である五街道の東海道、中山道、甲州道中、奥州道中、日光道中を始め、北国街道、長崎街道、伊勢街道、水戸街道などに代表される脇街道とよばれる道が発展した。水上交通を鑑みれば、幕命により、川村瑞賢等によって開いた海上交通網や琵琶湖の水運、角倉了以による高瀬川の開削などの河川交通等の発達も見ることができた。

交通網は主に道中奉行の管轄下に置かれており、治安維持施設として、五街道には箱根、新居、木曽福島、碓井、栗橋などに関所が設けられた。脇街道を合わせて国内に76箇所の関所が設置されていた。また、大井川、富士川、天竜川などには橋梁を架けず、川会所を設けていた。

道中奉行の管理下に属さない重要な街道もあり、その1つは江戸町と佐渡金山を結ぶ道で、その1つは奥州道中の白河から越後寺泊に至るもの。2つは中山道高崎から三国峠をこえて越後出雲崎に至る街道。3つに中山道追分宿から出雲崎に至るものであった。

また東海道から、さらに西方にのびている中国街道、東海道四日市から伊勢神宮に至る伊勢街道は五街道につぐ重要な道とされていたが、道中奉行の管理下に属さない街道でもあった。

諸大名が参勤交代のために江戸町と国元を往来することによって発達した脇街道も少なくなかった。会津藩主は会津若松から勢至堂峠を越えて奥州道中の郡山宿に出るか、山王峠を越えて日光今市に出なければならなかった。松江藩主や津和野藩主などの大名は中国山脈を越えて中国街道に出る道を選んでいた。和歌山藩主は紀州街道を利用して大坂に出ている。このように参勤交代は全国にわたる交通網の発達と人的交流に多大な影響を与える制度であった事も見逃してはならない。

【東海道五十三次「庄野」歌川広重筆】
【東海道五十三次「日本橋」歌川広重筆】

参考文献:高等学校地理歴史科用文部科学省検定済教科書『日本史B』東京書籍
著作者 下川 仁夫  / その他東京書籍発行関連図書

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