Tourism passport web magazine

学校法人明浄大学 大阪観光大学

〒590-0493
大阪府泉南郡熊取町
大久保南5-3-1

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大阪観光大の学生や教員が運営する WEBマガジン「passport」

Osaka University of Tourism’s
Web magazine”passport”

「passport(パスポート)」は、観光や外国語、国際ニュースなどをテーマに、 大阪観光大学がお届けするWEBマガジンです。
記事を書いているのは大阪観光大学の現役の教授や学生たち。 大学の情報はもちろん、観光業界や外国語に興味のある方にも楽しんでいただける記事を定期的に公開していきます。

世界遺産・高野山と空海のことば

お盆休みの間に、ゼミナールⅣAの学生(有志)とともに、授業外の学外研修として高野山を見学しました。

周知のごとく、高野山は、弘法大師空海が平安時代に開いた密教の根本道場であり、中国・唐で学んだ密教思想を山上に具現化したものです。高野山は、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する遺産の一つになっています。開創以来、高野山全域は「金剛峯寺」(こんごうぶじ)と呼ばれてきましたが、現在この寺名は、特に主殿(二枚目の写真参照)を指すものとして用いられています。

金剛峯寺

今回は、金剛峯寺をはじめ、「壇上伽藍」(だんじょうがらん)と呼ばれる聖域にある根本大塔、金堂、御社(みやしろ)などを見学し、さらに、高野山の至宝を展示する霊宝館(博物館)も訪れました。金剛峯寺では、豊臣秀次が自刃したと伝えられる部屋や大きな釜のある台所が、学生の興味を引いたようです。また、霊宝館では、第39回大宝蔵展「高野山の名宝・もののふと高野山」という展覧会が開催中でした。館内には、紺紙金銀字一切経(国宝)、武田信玄の肖像画(重文)、片桐且元書状(国宝)、織田信長朱印状(国宝)などが展示されていました。学生のみなさんは、金泥(きんでい)や銀泥(ぎんでい)(膠(にかわ)をといた水に金粉や銀粉をまぜたもの)で書かれた経典を見て驚いていました。また、展示室に掲示されていた戦国時代の豊臣家をはじめとする家系図に学生が興味をもっていたので、若干の解説を行いました。

当日は午後から天気がくずれ、一時は土砂降りとなりましたが、午後四時頃から雨も上がり、陽光に照り輝く朱色の根本大塔がまぶしく見えました。学生の一人(留学生)が、「この色は何と言いますか」と質問してきましたので、「朱色」と答えますと、その学生は「朱色」という言葉と実際の色とが初めて合致したらしく、「この色は、心が暖かくなる色だ」と言っていました。

根本大塔は、空海が高野山の開創当初から着工しましたが、入定(にゅうじょう)までに完成をみることはありませんでした。そこで、空海の意志を受け継いだ弟子が887年頃に完成させました(現在のものは、1937年に再建されたものです)。塔内の中央には、密教の教主である大日如来(だいにちにょらい)の金色に輝く像が安置され、その周囲には四仏の像が取り囲んでいます。また、朱塗りの十六本の柱には十六大菩薩が描かれ、壁面には密教の教えをインドから中国・日本に伝えた八祖像も描かれています。このように、根本大塔は、密教の教えを目で見えるかたち(図像)で表現したものです。
空海は、次のような言葉を残しています。

「真理は本来言葉では表せないものであるが、言葉がなければ、われわれはそれを認識できない。真理にきまった形は無いが、図像の形を通して、それを悟ることはできる。」(超訳)・・・『御請来目録』より

ここには、二つの重要な考え方が述べられています。一つは、「真理は本来言葉では表せない」というものです。つまり、言葉は真理を認識するために仮に用いているのであり、真理そのものを直接的に表すことはできないと言っています。通常、私たちは言葉を巧みに用いたり、あるいは、厳密に論理的に用いることで、何でもすべて表現できると考えてしまいますが、空海は必ずしもそうではないと言っています。このような考え方は、空海のみならず、仏教の開祖である釈迦にもあったと伝えられています。釈迦は悟りを開いた後、すぐには教えを説かずにしばらくの間、沈黙していたという話が残っています。つまり、自らが悟り得た真理は言葉によって人には伝えることはできないと考えて沈黙していたと言われています。
空海や釈迦とはレベルが違いますが、われわれも言葉について限界を感じることはないでしょうか。例えば、苦労して富士山の山頂に立ち御来光(日の出の景観)を拝んだ時の感動を、下山してから、そのような体験の無い人に説明する時、どのように言葉を尽くしても、その感動はありのままに伝わらないのではないでしょうか。なぜかと言えば、言葉はあくまで人間が使用する道具であり、体験や感動そのものではないからです。
言葉に限界があるとすれば、真理を言葉以外の方法によって伝えたり、理解することはできないのでしょうか。その答えはさきほどの空海の残した文章に説かれています。すなわち、われわれは「図像の形」によって真理を悟る、つまり、理解することができるというものです。これがもう一つの重要な考え方です。このように、密教では思想と芸術(図像表現)とが車の両輪のように分ち難く結びついています。従って、われわれが仏像を見たり仏画を描いたりするのも真理に近づく方法の一つなのです。
さて、壇上伽藍を見終わった後、学生の一人が「お餅を食べたい」と言うと、他の学生からも「食べたい」という声が続々と出て、最後はみんなで近くの店に駆け込むことになりました。
参加した学生の中には、これまでに高野山を訪れたことがない者や、訪れたことはあっても霊宝館を見学したことがない者もおり、今回の学外研修は学生にとって貴重な体験となりました。

参考文献:
頼富本宏(監修)『空海と高野山』PHP

文責:大阪観光大学 観光学部教授(宗教学・哲学) 佐久間 留理子

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