Tourism passport web magazine

学校法人 大阪観光大学

〒590-0493
大阪府泉南郡熊取町
大久保南5-3-1

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大阪観光大の学生や教員が運営する WEBマガジン「passport」

Osaka University of Tourism’s
Web magazine”passport”

「passport(パスポート)」は、観光や外国語、国際ニュースなどをテーマに、 大阪観光大学がお届けするWEBマガジンです。
記事を書いているのは大阪観光大学の現役の教授や学生たち。 大学の情報はもちろん、観光業界や外国語に興味のある方にも楽しんでいただける記事を定期的に公開していきます。

「日本文明を読む」第9回 『ラ・マンチャの男』のアメリカ

『ラ・マンチャの男』をフェスティバルホールに観に行った。主演はもちろん松本白鸚。今度、帝国劇場で通算公演回数1300回を突破する。

長年やってきたいつものメンバーの好演ぶりは、いまさら言うまでもない。床屋役の祖父江進は、大阪ということもあって少し笑いが多めだったか。瀬奈じゅんのアルドンザ役は初めて見たが、歌声も含めてやはり舞台映えがする人で、かなり良いと思う。

演出に細かくまた手が入れられており、全体として、人の世の理不尽や暴力の恐ろしさが以前よりも強調された感がある。ならば、「あるがままの人生に折り合いをつけ」るのではなく、それに抗して「あるべき姿のために戦」う1人の男 ── セルバンデス(作家)であり、アロンソ・キハーナ(セルバンテスが演ずる劇中劇の主人公)であり、ドン・キホーテ(キハーナの妄想が生み出した騎士) ── の、狂気と裏腹の気高さが際立つというものだ。重層的なアイデンティティを背負った「ラ・マンチャの男」の姿を、松本白鸚は、今回も分かりやすく鮮やかに演じてくれる。

ところで、アメリカでの『ラ・マンチャの男』の初演(ワシントンスクエア劇場)は1965年だが、原型となるテレビ向け脚本ができたのは、もう少し遡って1959年のことである。第二次世界大戦で破壊された諸大国が没落するなか、戦勝に沸く当時のアメリカはまだ、ほとんど独りで豊かさを享受していた。しかしその一方、アメリカの信ずる「正義」は、すでに迷いの霧のなかに踏み入れつつあったと言える。

なぜか。当時、共産主義のソヴィエト=ロシアとの冷戦状況が長引くにつれ、彼らの間に、世界には率直さや自由といったアメリカ的な価値の通用しない相手がおり、しかもかなりタフでもあることへの無力感が広がりつつあったのである。1960年代初頭、ハーヴァード大学で在外研究を行っていた若き国際政治学者・高坂正堯は、その様子を、「今までアメリカが正しいと信じて来たいくつかの価値がこの世界では実現されないこともあるということが判ったため、アメリカは迷っている」と喝破している。

苛立たしく不安なこの状況は、1961年のベルリンの壁建設を経て、翌年のキューバ危機で1つのピークに達した。人類文明を滅ぼす核戦争の深淵を覗き見たケネディ政権は恐怖し、異質な価値体系を奉ずる相手とでも、妥協せざるを得なかったのである。

そうした迷いの一方、アメリカの繁栄はまだ確かであった。科学的合理主義と無尽蔵と思えた資源、そして人々の活力に支えられた経済は、簡単には揺らがない。「正義」のような価値が見えにくくなっても、豊かさは追求される。まさにそれは、カルビン・クーリッジ ── 第一次世界大戦後の「狂騒の」1920年代に副大統領、次いで大統領を務めた ── が述べたように、“the chief business of the American people is business.[アメリカ国民の第一のビジネス(務め)はビジネス(商売)である]”ということにほかならない。むしろ、価値が見失われつつあるときこそ、その空隙を埋めてくれる、物質的な富に目が向くという面もあろう。しかしそれも空しく、価値の動揺はこの後、アメリカ史の一大挫折、ヴェトナム反戦運動の時代へ繋がっていくことになる。それが、本家『ラ・マンチャの男』がブロードウェイで好評を博した時代なのである。

ひるがえって、いまのアメリカはどうか。1990年代、冷戦の ── ソヴィエト=ロシアへの ── 勝利に沸いたアメリカでは、価値の面では最終的な勝利としての「歴史の終わり」論、経済の面では景気後退無き「ニューエコノミー」論が、誤って高唱された。その後に待っていたのは、2000年代の「テロとの戦い」、そしてリーマンショックから現下の貿易戦争に至る、グローバル経済の波乱である。いまドナルド・トランプ大統領が示しているのは、価値において分断されてしまったアメリカで、政治指導者が金儲けを前面に押し出す像であろう。それは、単純に“the chief business of the American people is business.”への回帰でもない、また違った姿である。

現下の日本もまた、世界には日本的な価値の通用しない相手がいることを、改めてまざまざと思い知らされている。他方、戦後の日本では価値の追求の代わりに経済成長が追い求められたが、そこでの自信喪失を、人々が口にするようになって久しい。

価値にせよ経済にせよ、「あるがままの人生」で良しとするのか、「あるべき姿」を求めるのか。一概にどちらが正しいとは言えないし、『ラ・マンチャの男』にも答えはない。しかし、この難しい問題に真面目に向き合うための意気をくれる作品である。

「日本文明を読む」バックナンバー

【第8回】吉田松陰の熊取行、そして『孫子』読解
https://www.tourism.ac.jp/passport/column/475.html

【第7回】私も「タモリ」になりたい
https://www.tourism.ac.jp/passport/column/306.html

【第6回】藤田雄二『アジアにおける文明の対抗』(御茶の水書房)
http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9913980/www.tourism.ac.jp/blog-cultural/detail.php?id=54

【第5回】NHKスペシャル『総理秘書官が見た沖縄返還 発掘資料が語る内幕』(NHK /  2015年5月9日放映)
http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9913980/www.tourism.ac.jp/blog-cultural/detail.php?id=41

【第4回】榎本正樹『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。全話完全解読』(双葉社)
http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8836987/www.tourism.ac.jp/csj/blog/cat_3/post_43.html

【第3回】苅部直『安部公房の都市』(講談社)・追記
http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8836987/www.tourism.ac.jp/csj/blog/cat_3/post_42.html

【第2回】苅部直『安部公房の都市』(講談社)
http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8836987/www.tourism.ac.jp/csj/blog/cat_3/post_38.html

【第1回】高坂正堯『文明が衰亡するとき』(新潮社)
http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8836987/www.tourism.ac.jp/csj/blog/cat_3/post_35.html

[国立国会図書館インターネット資料収集保存事業(WARP)]

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