DATE
2010年07月16日
カテゴリー
加藤ゼミ&コラム

余暇を過ごすということ(観光経済新聞連携コラム)

大阪観光大学准教授 加藤 素明 (美学・藝術学、西洋古典学)

 7、8月は夏休みシーズン。近年では企業や業界、学校等によって休みの期間に多少のずれもあるようだが、ともあれ待ちに待った夏休み。今年はどこに出かけようか、どんなイベントに参加しようかと、このときを心待ちにしている人も多いことだろう。
 ところで、日本人の「休暇下手」が指摘されて久しい。ゴールデンウィーク、お盆、年末年始に数日間、日本中が故郷に行楽地に、あるいは海外にと大移動を繰り広げ、疲労困憊のうちに休みが終わる。そんな休暇の過ごし方が今でも相変わらず続いているようだし、見方によっては、日本人は嬉々としてそれを遂行しているようにも見うけられる。休暇期間の短さは、この際問うまい。問題は休暇期間を過ごす心のあり方である。上述のような休暇の過ごし方は、日本人の国民性がなせる業であろうか、ある意味で極めて勤勉な休暇であるとも言えよう。だが、なぜせっかくの余暇に、わざわざ好んで労苦を味わおうとするのだろう。

 余暇を「仕事のない状態」と捉える人にとっては、休暇というヒマな時間は罪悪なのかもしれない。せめてその罪悪感をかき消さんがために勤勉に旅行して労苦を味わい、休暇期間を「有意義に」過ごしたと同僚や周囲の人達に誇りたい。そんな余暇観が見え隠れする。
 だが、余暇は罪悪か。言うまでもない。答えは否。「仕事のない状態」が余暇なのではない。「余暇のない状態」が仕事なのである。
 古来、人間は余暇における精神活動によって文化を形成してきた。労苦のない時間に、より価値の高い何ものかに思いを馳せ、それを是非とも自分の目で見たいと熱望する。これを愛と言っても良い。愛する人を想うが如き、その熱い想いによって、ある者は神仏や偉大な智に目覚め、ある者は藝術を生み、ある者は学問・科学を生み、そうして人類は文化を育んだ。
 余暇とはすなわち、自分が熱望する何ものかへの愛を実践する時間である。自ら熱い想いを寄せるものが無く、またこれを実践する能力が欠けている状態では、どんなに「忙しい忙しい」と立ち回っていても、それは「怠惰」なのである。労苦を味わうことが自己目的化してしまった労働は怠惰である。せっかくの休暇期間がただの労苦に堕してしまっては、何のための休みなのか、分からないではないか。

 さて、夏休み期間中、音楽祭、演劇祭、映画祭等々、国内外のフェスティバルが目白押しである。こうしたイベントのことを「フェスティバル」と称するのは、なかなかに面白い。音楽祭とは、すなわち音楽の「祝祭」だということになる。まるで神社の祭礼みたいだ。
 そう。私たち人間の日常的な労働生活を超えたところにある、いわく言いがたい世界。その不思議な世界への扉を開くのが祭り、すなわち祝祭である。夏祭りの花火でロマンチックな気持ちになるように、藝術であれ何であれ、価値ある何ものかを愛して想いを寄せ、それを見ようと行動する。そんな祝祭的な時間として余暇を過ごせるようになりたいものだし、またそのような余暇の過ごし方を善いものだと言えるような余暇観、つまりは人生観・世界観を持ちたいものだ。

参考図書: ヨゼフ・ピーパー 『余暇と祝祭』 稲垣良典訳 講談社学術文庫、1988

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