

大阪観光大学教授 橘 弘文(民俗学)
今年(2010)、奈良は平城遷都1300年祭で盛りあがり、多くの観光客が奈良を訪れている。復元された大極殿や発掘の疑似体験ができる施設、そして「大遣唐使展」など多彩なイベントが観光客をむかえている。
奈良に平城宮が置かれていた1300年前、日本をふくむ東アジアでは仏教にたいして深い関心が寄せられていた。日本から唐に渡った留学僧たちは唐で注目をあつめていた最新の仏教の宗派である密教に強烈な刺激を受けた。密教の重要な経典にインドで成立した「大日経」がある。インド人僧・シュブハーカラシンハが「大日経」をインドから中国にもたらしたといわれている。
シュブハーカラシンハは「宋高僧伝」などによれば637年に東インドのオリッサ地方の王家に誕生した。シュブハーカラシンハという名前はインドの古典語であるサンスクリット語のシュブハーカラ=「美しい、善い」とシンハ=「ライオン」からなっており、さしずめ「美しいライオン」という意味を表す。幼児から聡明だったシュブハーカラシンハは13才で王位を継ぐが、兄弟がこれを妬み、戦争が起きる。シュブハーカラシンハはその戦争に勝利した後、敵となって戦った兄に王位をゆずり、自らは出家する。これからシュブハーカラシンハの大旅行がはじまる。
シュブハーカラシンハはまずオリッサ地方を南下し、東インドの海岸地帯に出て法華経を学んだ後、1万個の砂の塔を海浜に作った。それから彼は商船に乗り、諸国を旅行した後、仏教研究の中心だったインド北東部のナーランダー寺院に行き、ダルマキクタに師事した。ダルマキクタの顔は40才くらいに見えるが、じつは800才だったという。シュブハーカラシンハはダルマキクタから密教を授けられ、師のすすめにしたがい中国へ向かった。彼はカシミール、ウディヤーナを経て、ヒンドゥクシュ山脈を越え、チベット人の勢力圏を過ぎ、ついに唐の西の境界に達し、国境の玉門関で皇帝睿宗の使者の出迎えを受け、そして716年に長安に到着し、数年後、洛陽に移った。シュブハーカラシンハは唐で「善無畏」とよばれ、「虚空蔵求聞持法」や「大日経」をサンスクリット語から中国語に翻訳し、735年に唐で亡くなった。
しかしシュブハーカラシンハの旅行はまだ続く。シュブハーカラシンハの訪日伝説が、いくつかの日本の寺院に伝わっている。たとえば、京都府京丹後市峰山町の縁城寺では、シュブハーカラシンハは717年に来日し、後に縁城寺が建立されることになる場所で不思議な二人の子どもから観音像を授けられたと伝えられている。彼はその喜びを記した巻物をその観音像に結びつけた後、いったん唐にもどり、漢訳の「大日経」を携えて再来日を果たし、そして再び唐に帰る途中、九州で客死したという。
平城遷都1300年の私的なイベントの一つとして、丹後の古刹、縁城寺を訪れ、その趣きのある境内にたたずみ、シュブハーカラシンハの大旅行に思いをめぐらせてみてはどうだろうか。
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