DATE
2010年04月22日
カテゴリー
加藤ゼミ&コラム

コンサートホールは何のため? (観光経済新聞連携コラム)

大阪観光大学准教授 加藤 素明 (美学・藝術学、西洋古典学)


  コンサートホールに何をしに行くか。演奏を聴きに行くに決まっているではないか。そういう答えが返ってくるだろう。誠に結構なことだ。クラシックであれ、ポップスであれ、ロックであれ、開演前十分な時間を見て会場に赴き着席、演奏会が始まったら演奏家の演奏に対峙する。気分も高揚し、会場は大いに盛り上がる。拍手、手拍子・足拍子、シャウト、スタンディング・オベイション。終演後、十分な満足感と共に帰途につく。悪くない。

  しかし、そこでふと思う。今日ホールに来ていた他の人達のことを何も気に留めていなかったと。ホールでの出来事は、演奏家と私(もしくはせいぜい同伴者を含めて私達)との関係である。たまたま知り合いが来ていたとしても、関係の広がりはその範囲に留まるのが通例だ。それ以上のことを演奏会に求めてはいない。なぜだろう。

  そう思って、歴史を250年ぐらい遡ってみる。モーツァルトが活躍し始めるころのヨーロッパである。オペラを上演する歌劇場は、何よりもまず社交の場であった。劇場に集まる王侯貴族達にとって主たる関心事はそこに集まった人々との会話、新たな出会いであって、上演される音楽は二の次だった。音楽は社交の時間を邪魔しないように、短く分かりやすく。これが作曲家たちへの至上命題であった。そこに一石を投じたのがモーツァルトであることは、映画《アマデウス》にもよく描かれていた通りである。

  やがて19世紀に入って、演奏会等で行われるパフォーマンスはこの上なく高貴な価値を持つ藝術作品と見なされるようになった。観客は真っ暗なホールでひたすら真面目にステージ上の出来事を見る。観客同士の横の広がりは考慮しない。19世紀後半に近代化した日本は、こうした藝術観を輸入して今日に至っているのである。

  さて、現代の劇場空間と言えば、話はコンサートホールに限らない。例えば、TDRやUSJといったテーマパークはどうだろうか。来場者は家族連れ、カップル、友達同士。銘々がアトラクションに興じている。微笑ましい光景だ。しかし、楽しんでいるのは個々のグループ毎にであって、それではグループ間の交流がテーマパーク内で生まれているのかというと、皆無とは言わないまでも比較的稀なケースであろう。ここでもやはり、アトラクション対個々人という関係が「真面目に」遂行されている。

  とは言え、今いきなり観客同士の交流を持ちましょうというのは無茶である。少なくともそういう社会制度がすでに過去のものである以上、18世紀的社交空間を現代によみがえらせる発想自体が、現代人には思いもよらないことであろう。だが、個々人の自我が肥大し、価値観というものが極限まで個人化して既に閉塞状況を迎えてしまった今日、その状況がコンサートホールやテーマパーク等での楽しみ方にも現れているということは言えるだろう。21世紀人はこの殻を打ち破ることができるであろうか。

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